「痛み」と聞いて、多くの人は身体のどこかに感じる感覚を思い浮かべるでしょう。けれども、緩和ケアの現場で日々直面する「痛み」は、決して身体だけの問題ではありません。1960年代にホスピス医療の先駆者であるシシリー・ソンダース医師が提唱した「トータルペイン(全人的苦痛)」という概念は、緩和ケアの根幹にあります。これは、患者さんの苦しみを、身体的、精神的、社会的、スピリチュアル(霊的)な側面から総合的に理解しようという考え方です。
たとえば、がんによる疼痛がある場合、それを鎮痛薬で和らげることは当然の治療ですが、同時に「この先どうなるのか」という不安や、「家族に迷惑をかけているのではないか」という罪悪感が痛みをより強く感じさせることがあります。また、仕事を失い、社会とのつながりを感じられなくなることも、苦しみを深める要因になります。そうした背景まで丁寧に掘り下げ、患者さんの全体を支えるのが、緩和ケアです。
精神的な苦痛には、不安、抑うつ、怒り、喪失感などが含まれます。薬物療法やカウンセリングだけでなく、寄り添いの姿勢や、安心できる関係性の中で初めて和らぐものもあります。また、社会的な側面には、経済的不安や介護者の問題、住環境、制度利用の難しさといった現実的な問題も多く存在します。これらに対処するためには、医療職だけでなく、ソーシャルワーカーやケアマネージャーとの連携が欠かせません。
そして、見落とされがちなのがスピリチュアルな苦しみです。「なぜ自分がこんな病気に?」「生きてきた意味は?」「死ぬとはどういうことなのか」。答えの出ない問いを抱えながら生きること自体が、大きな苦しみとなります。宗教的支援が有効な場合もあれば、信仰がなくても「話を聞いてもらうだけで心が軽くなった」と語る方も多くいます。
こうした複雑な苦しみに対し、緩和ケアは一つ一つに向き合います。時には薬で、時には対話で、時には環境を整えることで、人は少しずつ楽になっていきます。
「この痛みは、本当に身体の痛みだけなのか?」そう問い直すことが、緩和ケアの第一歩なのです。